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赤穂四十七士討ち入りの日!

2011/12/14 水曜日

今日12月14日は忠臣蔵 赤穂四十七士討ち入りの日!

○忠臣蔵とは?
時代は元禄14年。
赤穂藩藩主の浅野内匠頭が、指南役の吉良上野介を殿中で切りつけました。
普段上野介から意地悪い仕打ちをうけていた内匠頭は耐えられなかったのです。
当時、殿中で刀を振るうというのは禁じられていて、内匠頭は幕府から即日切腹を言い渡されます。

当時は「喧嘩両成敗」と言われていた時代。
浅野家家老の大石内蔵助は、藩主の内匠頭のみ処分を受けたことに納得がいかず、無念。
取りつぶしとなった赤穂藩は、城をはなすことになるのですが、
内蔵助は家臣たちに「内匠頭の仇をとって、上野介の首をとる。おまえたちの力を貸してほしい」というのですが・・・
内蔵助は遊び呆け、なかなか実行しません。だんだん一部の家臣はいらだつようになります。。
しかしそれは作戦でした!
内蔵助が遊び呆けていたのは、まわりを油断させるため。
人の目を欺いて、上野介への仇討ちなど考えていないと思わせるためでした。

そして元禄15年12月14日、赤穂四十七士討ち入りが決行されます。
47人は決行前にそばを食べ、寅の刻(午前4時前後)に吉良家に突入し、
上野介の首をとることに成功。
この頃は、日の出とともに日付が変わるとされていたので12月14日となっていますが、
今でいうと12月15日の午前4時頃に突入したことになりますね。
その後赤穂四十七士は、その首を内匠頭のお墓に持っていって報告し、後に切腹しました。

武士の義を貫いた、内蔵助はじめとする47人の武士。
元禄時代を生きた日本人の、忠義の精神、誠実な心を訴えているお話です。
今年の漢字に「絆」が選ばれました。忠臣蔵の世界も、まさに絆を描いたストーリーですね。
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○「忠臣蔵」と富山
この「忠臣蔵」と富山、多少関係があることはご存知ですか?
内蔵助の義理のお姉さん・満(まん)は、
富山藩士だった磯野家というところに嫁いだと言い伝えられています。
当時多く行われていた養子縁組によって、満と内蔵助は姉弟となったわけなのですが、
「義理の」とはいうものの血はつながっていたようです。

その義理の姉が富山の磯野家に嫁いでいるということは、磯野家につながりのある富山藩士は
すべて大石内蔵助の家と縁続きということになります。
その磯野家、林義牧派遠州流茶道の家元として現在も続いています。
300年も前の出来事とはいえ、こういった話を聞くと、忠臣蔵がちょっと身近に感じられますね。

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grace 17:07:19