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4月5日 gra書(グレイショ)

2011年4月5日

4月から、月曜、火曜のgraceを担当することになりました。よろしくお願いします。

それに合わせて、このコーナーをスタートさせます。

「gra書(グレイショ)」。

高校(書道)の教員免許を持つ私今井が、書道の「いろは」からご紹介していきます。

最近、武田双雲(たけだそううん)さんや紫舟(ししゅう)さん、県内では、森大衛(もりだいえい)さんや大蔵(だいぞう)さんなど、書家が注目されてきています。今ご紹介した方のお名前、聞いたことがあるのではないでしょうか。

もちろん、このほかにも書家はごまんといますし、日本人だけでなく、中国人にも超がつく有名な書家はたくさんいます。きょうは、第1回ということで、その書道の大まかな流れをさらっとご紹介します。

書道の歴史をひも解きますと、「書道」として最初の文字とされているのが、今からおよそ3500年前に見つかった、「甲骨文字(もうこつもじ)」と呼ばれるものです。この時は、紙ではなく、甲羅や骨に刻むような感じで文字が書かれていました。もともと甲羅や骨を使って占いをしたのが、この文字が生まれたきっかけともされています。その占いの結果を残す形で、文章が書かれたのが、この甲骨文字です。昔世界史で習った「くさび型文字」に近いものがありますね。

aunai.JPG 甲骨文字で「書」と書くとこうなります。ちょっと読めませんね。

その後、青銅器などに刻まれたりかたどられたりした「金文(きんぶん)」という文字を経て、およそ2500年前に、「篆書(てんしょ)」が登場します。皆さんおもちのハンコの文字がそうですね。当時中国では、秦の始皇帝が国を統一しました。このころの文字です。なお始皇帝は、それまで地域によって書き方がまちまちだった文字を統一したことでも知られています。

anai.JPG篆書体の「書」です。なんとなく形がわかりますか。

ただし、これも、石に刻まれたものが大半で、紙に書かれた文字は、残念ながら残っていません。

その後、時代が変わって、中国の国が発展するに伴って、より多くの物事を、より分かりやすく記録に残すことが求められるようになりました。そうなると、それまでの篆書では、形が複雑で書きにくく、実用的でないと感じるようになります。そこで、より分かりやすく書きやすい文字が登場しました。それが「隷書(れいしょ)」です。およそ2,000年前の時代です。分かりやすいところでいえば、新聞の題字「読売新聞」「朝日新聞」のあの字です。

iinai.JPG 隷書体の「書」です。ここまで来るとわかりますね。

この時代もまだ石に刻まれたものが大半ですが、40年ほど前に、中国や中央アジアで、木の札や絹に筆の文字が書かれているのが発見されて、これが、現存する筆文字の古いものといわれています。木の札に書かれたものを「木簡(もっかん)」、絹に書かれたものを「帛書(はくしょ)」と呼びます。中央アジアは、洋の東西を結ぶ中継地として栄えていました。そこで見つかった木簡や帛書は、いわゆる荷物の札やリストといったものが主なものです。これもいわゆる記録、ですね。

ところが、これも、まだまだ書きにくい、もっと簡単に書ける文字をということで、新しい書体が登場しました。およそ1,800年前、2つの書体が登場します。1つは「楷書(かいしょ)」、もう1つは「行書(ぎょうしょ)」です。 そこから100年ほど遅れて、「草書(そうしょ)」が誕生しました。

unai.JPG 楷書体の「書」です。皆さんよく見る形ですね。

 onai.JPG こちらは、行書体の「書」。これもよく見ますね。

「楷書」は、皆さんよくご存じの、鉛筆やペンなどで書く普通の文字です。一番読みやすく、書きやすい書体です。そこからもっと早く、書きやすいものとして生まれたのが「行書」です。いわゆる「くずし字」ですね。そして、「草書」は、速く読みやすく字を書くという点では「行書」と似ていますが、「楷書」をくずしたのが「行書」なのに対して、先ほどの「隷書」をくずしたのが「草書」とされています。また、「行書」と「草書」の決定的な違いとしては、読みやすさを追求したのが「行書」で、書く速さを追求したのが「草書」といえます。

 

adhnai.JPG こちらは、草書体の「書」。ここまで来るとちょっと読めないですね。

しかし、まだまだ実用的な書きもの、今でいう、手紙だったり、記録だったりメモだったりしたものが、書道としての美的価値が認められていて、今の展覧会で観るような、軸や額に飾ったものを書道としてみるのは、もっと先になります。

ここで、時代は、今から700年ほど前に一気に飛びます。中国の明の時代、日本でいいますと、室町時代に当たる頃です。このころの中国は、いわゆる文人と呼ばれる人が注目を浴びていました。文人というのは、漢詩を読み、書道ができて、水墨画も描ける、いわゆるインテリさんです。そういった文人が、今のような細長い紙に、字や絵を描くようになってから、現在の形式で書を書くスタイルができあがったようです。

image171.jpgimage172.jpg  左の2点は、去年私が書いたものです。

こういったスタイルは、日本では、江戸時代に入ってから広まりました。

それまでの日本の書道は、中国のように、記録や手紙が主に芸術的価値があるものとして認められていました。ただし、中国と決定的に違う点もあります。1つは、カナ文字があるということ、もう1つは、仏教が大きくかかわっているということです。

カナ文字は、おもに和歌を記したもので、古今和歌集など和歌集がしたためられています。きらびやかな装飾が施された紙に書かれているものや、冊子のように折りたたまれているものを広げながら見るものなど、多彩な種類があります。

もう1つの仏教は、日本に仏教が伝来した時に、写経が盛んに行われました。それ以降、仏教に関するものを記録したものが数多く残されています。また、遣隋使や遣唐使、僧侶が書いたものも価値が高いとされました。

image006.jpg  この掛け軸は、僧侶に書いていただいた「南無阿弥陀仏」の掛け軸です。
このような掛け軸や額は、富山県内のお家にけっこうあります。

どちらかというと、江戸時代に入るまでの日本の書道は、公家や僧侶など、上流階級向けのものというとらえ方ができます。一方、江戸時代以降は、教育が進んだこともあって、上流階級だけでなく、政治家から庶民まで、幅広く書道が広まりました。

明治に入ると、今の書道団体のようなものもできてきました。

takanobu827 10:17 am