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[「義仲・巴」ラジオ紀行]

■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2019年4月放送 ■


#1「富山県小矢部市」【2019.4.2放送】

今から遡ること800年以上も前の西暦1183年(寿永2年)
木曾義仲が平家の大軍に挑んだ「倶利伽羅峠の戦い」。

この戦いの舞台となった倶利伽羅峠の山頂では
毎年4月、富山県小矢部市と石川県津幡町の合同イベント
「歴史国道イベント くりから夢街道ウォーク 
加賀vs越中 源平大綱引き合戦」が開催されています。

太さ12cm、長さ120m、重さ600kgにもなる大きな綱を
小矢部市と津幡町それぞれで募集した参加者が引き合います。

小矢部市側を源氏方、津幡町側を平家方に見立てて、
源平合戦さながらの真剣な「大綱引き」です。
太鼓の演奏やクイズ大会など、
楽しいアトラクションも催されています。
綱引きの後は、八重桜の咲き誇る倶利伽羅峠から、
小矢部市、津幡町のそれぞれに向けて、
武者行列を先頭に「北陸道」をウォーキングします。

「北陸道」は平成7年から「歴史国道」に認定されており、
万葉歌人の大伴家持(おおとものやかもち)も訪れています。

戦国時代には加賀と越中の国境で前田利家と佐々成政の国盗り合戦が、
さらに江戸時代には加賀藩前田家の参勤交代にも用いられました。
現在では、散策路が整備され、四季折々の風景を楽しむことができます。

今回のウォーキング中は、観光ガイドによる解説があるほか、
お茶やおだんごのサービスもあります。

詳しくは、小矢部市または津幡町の観光協会までお問い合わせ下さい。

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#2「富山県南砺市」【2019.4.9放送】

富山県南砺市福光、自然豊かなこの地で、
民家や商店が連なる道路沿いに大きな一本の古い松の木、
「巴塚(ともえづか)の松」が枝を伸ばしています。

91歳で生涯を終えた巴御前の遺言により植えられたこの松の木。
樹齢は750年にも及ぶと伝えられており、現在も地元の人たちから
「一本松」の名で親しまれています。

巴御前は、木曾義仲の養父となる
中原兼遠(なかはらかねとお)の娘として生まれました。
のちに木曾四天王と呼ばれる樋口兼光(ひぐちかねみつ)、
今井兼平(いまいかねひら)は実の兄にあたります。

また、幼いころから義仲とともに育ち、幼なじみのような間柄でした。
「平家物語」に、巴御前のこんな描写があります。
「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」
「一人当千(いちにんとうせん)の兵者(つはもの)」

顔立ちが美しいと同時に、
とてつもなく強い武将であったことがうかがえます。

義仲最期の戦いとなった、
今の滋賀県大津市、粟津原(あわづがはら)の戦いにおいては、
味方の兵が残り少なくなっても勇敢に戦い、
義仲とともに死ぬことを願いました。

しかし、義仲に強く諭され落ち延びることとなり、義仲亡き後、
かつて倶利伽羅峠で共に戦った、福光城の城主である石黒光弘を頼って
福光の地を訪れることとなります。

尼となった巴は、義仲や父である中原兼遠はじめ、
戦で亡くなった仲間たちの菩提を弔い、
この地で91歳の生涯を終えたとされています。

現在、南砺市の民間団体「福光ネイティブトラスト」では、
「巴塚の松」の種から育てた苗木を全国の巴御前ゆかりの地に贈る活動を続けています。

 
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#3「長野県木曽町」【2019.4.16放送】

長野県の南西部に位置し、西に御嶽山(おんたけさん)、
東には中央アルプスの木曽駒ケ岳がそびえる木曽町日義(ひよし)。

ここは、義仲や巴御前にちなんだ多くの伝承、遺跡、行事が身近に感じられる町です。

義仲の生涯は31年間。父 源義賢(みなもとのよしかた)が討たれ、
武蔵国(むさしのくに)から、中原兼遠(なかはらかねとお)を頼って
木曽に逃れてきた時はまだ2歳。

その後、打倒平家のため挙兵をする27歳まで、
実に25年間を木曽の地で過ごしたことになります。

長野県日義(ひよし)地区では、毎年8月14日、義仲を偲んで、
「木曽義仲 旗挙げまつり」が開催されます。

まつり当日、義仲の菩提寺「徳音寺(とくおんじ)」に隣接する
「義仲館(よしなかやかた)」は、巴太鼓の演奏など多彩な出し物で賑わいます。

そして日が暮れると、山吹山(やまぶきやま)に
木曽義仲の「木」の火文字が浮かび上がり、その後山頂から、
白鉢巻きに、たすき掛けで身を固めた男の子たちが、
松明(たいまつ)を掲げて夜の闇を照らしながら麓に下りてきます。

「らっぽしょ」と呼ばれる、地元子どもたちによる伝統行事です。
男の子たちは、途中で提灯を手にした女の子らと合流。
さらに義仲、巴御前の武者行列も加わって、
「らっぽしょの歌」を歌いながら行進し、徳音寺の墓前で義仲を弔います。

まつりの最後に打ち上げられる大花火は、貴族社会から武士の世を切り拓き、
一瞬の輝きを放って平安の時代を駆け抜けた英雄「木曾義仲」の
儚くも美しい生涯を映すかのように木曽の夜空を彩っています。

 
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#4「埼玉県狭山市」【2019.4.23放送】

埼玉県南西部に位置する狭山市(さやまし)。
義仲の子である清水冠者・源義高(みなもとのよしたか) 終焉の地といわれ、
義高と源頼朝の娘 大姫(おおひめ)にまつわる悲話伝説が残されています。

打倒平家をめざしていた義仲は、
源氏同士の衝突を避け頼朝と和議を結ぶため、
当時まだ11歳であった息子義高を人質として鎌倉に送ります。

義高は頼朝と北条政子の娘 6歳の大姫の許婚(いいなずけ)となり、
二人は仲睦まじく暮らしていました。

ところが、そのわずか1年後、現在の滋賀県大津市、
粟津原(あわづがはら)の戦いで、義仲が頼朝の軍勢に討たれると、事態は一変します。

頼朝に命を狙われることとなった義高は、
北条政子や大姫の計らいで鎌倉を脱出し、
父 義仲の生まれ故郷である埼玉県嵐山町の大蔵館をめざします。

しかし、今も狭山市の中心部を流れる入間川(いるまがわ)付近で
追っ手に捕えられ、若干12歳の若さでこの世を去ることになります。

義高の死を知った大姫は、悲しみに暮れ、二人を哀れに思った北条政子は
入間川のほとりにある義高の墓に祠(ほこら)を建てたと言われており、
現在も清水八幡宮として残されています。

こうした悲劇を後世に伝えようと、地元市民団体を中心に5年前から
「義高ウォーク」が開催されています。
義高がめざしたとされる約27キロメートルの道のりを歩き、
その想いを果たそうとするイベントです。

今年の開催は5月4日。皆さんも、多くの鯉のぼりが揚げられている
入間川河川敷を越えて、大蔵館跡をめざしてみませんか。

 
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#5「石川県津幡町」【2019.4.30放送】

石川県のほぼ中央に位置し、富山県小矢部市と接する津幡町。
義仲の生涯で最大の戦いといわれる「倶利伽羅峠の戦い」の地として、
「倶利伽羅古戦場」「王城(おうじょう)」「津幡城跡」
「平知度(たいらのとものり)の首塚」など源氏と平家それぞれにまつわる、
多くの文化遺産が豊かな自然景観とともに今も息づいています。

今年2月、北国街道倶利伽羅峠道をはじめとする文化遺産群の魅力を
一つの「ストーリー」とした「いにしえの記憶をたどる道 〜倶利伽羅峠〜」が
「いしかわ歴史遺産」に認定され、
町を挙げて倶利伽羅地区のさらなる魅力発信に取り組んでいます。

こうしたなか津幡町では「倶利伽羅峠の戦い」を中心に、
義仲が「実は心優しく、情に厚い、仲間との絆を大切にする人物」であったこと
また、そうした義仲に応える巴御前をはじめとする仲間たちにも恵まれていたことなどを
わかり易く紹介する漫画、「ぼくらの義仲物語」を制作しました。

町出身の漫画家、百万友輝(ひゃくまんゆうき)さんによるこの漫画は
漫画本編に加えて「年表」や「まめ知識」「ゆかりの地」などを紹介した
資料編によって構成され、大人から子どもまで、
誰にでも読みやすい内容になっています。

このほか最近では、義仲と巴御前を主人公とした紙芝居を制作、読み聞かせを行ったり、
町民が源平両軍に分かれ歌で対戦する「源平歌合戦」を開催するなど、
町民が一体となって地元の歴史に親しみ
「源平合戦ゆかりの地」として町をPRしています。

 
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